カバラ数秘術のBlog

静岡在住の数秘術カウンセラーによる、数秘術やスピリチュアリズム、メンタルケアのいろいろ

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「言いたいことを言う」んじゃなくて、「伝えるべきことを言う」ほうがベターだと思う。



こんなことを書こうとしている私自身も含め、この世に生きる誰もが、魂の修行中。
ということは、まだまだ知識も知恵も愛情も足りなくて、未熟なレベルであるということになる。
お互いに、どんぐりの背比べをしているようなもの。


で、精神/霊性の成長が未熟であるというのは、(熟した状態=悟ってる人たち からすれば)わかっていないこと・できないことが多いということになる。
けれど、とかくそういうことは忘れがちだ。
ちょっとうまく行ったり成功すると、自分は(人格や霊性は)他の人よりも抜きんでている、と勘違いし、うぬぼれる。
だから、未熟な人は、判断を間違える。
自分では良い/正しいと思ってしたことも、なかなかうまくは行かなかったりする。


自己啓発系で良く見聞きするのは、「我慢してはいけない」「我慢は愚かだ」みたいな話(教え?)

言いたいことがあっても我慢してたら病気になった、我慢を止めたら病気が治った等々。
下手すると人の命にかかわる話。
鵜呑みにしちゃう人もいるから、こうした類の話は、うかつに公言してはいけない気がする。
(なのでカルトは危険視される)

それにどう考えても、その人が病気が治ったのは、必ずしも、「言いたいことは言うようにして我慢を止めたから」だとは断定できない。
そもそも回復状態にあったのかもしれないし、他の治療が効いたのかもしれない。
因果関係はわからないのだ。


そもそも、こういうありかた・生きかたの"教え"は、その人自身の感覚や価値観であって、一般論として説いたり、しかも鵜呑みにしてやるのもマズいと思ってる。
こういうことは、あくまで、状況や人による、もの。
人によっては当てはまる、当てはまらないという教えであれば、本来は、それを世間に伝えること自体が間違っている。
世間に向けて断言できることは、「真理」のみ。
真理は100%、いつどこで誰にとっても、絶対な事実なのだから。
なので真理は科学であると言われる。


さて、我慢にも、したほうがいい、もしくは必要な我慢だっていっぱいあると私は思っている(自分にとって役立つ、価値ある我慢を、辛抱 という)
それを見分けられるような人であれば、こういう話を見聞きしてもうっかりその気にはならないんだろうけれど、(だれの目から見ても)「深く考えない」人が増えているから、よくないなと思ってる。


そもそも、我慢(ストレス、不満)って、欲望から生まれてることを、無視したり忘れてはいけないと思う。
その欲望には、食欲とか睡眠欲とか、物欲もある。
生き延びるための生存本能が欲望を生み出してる。
だから、中には、「とても大切で正しくて必要な」欲もある。
やる気や意欲(をかき立てるための欲)もそう。


けれども、魂の学びが未熟な人ほど、純粋な欲と、肥大したエゴ=黒くてドロドロな欲の見分けがつかないもの。
で、人って、自分がいちばん大切な生き物。
なので、誰でも、自分の立場や意見を正当化しようとするものだ。 自分は正しい、これでいいのだ、間違っていない等々。

そしてこれは逆方向から見ると、向こうが間違ってる、悪い という判断をしているということになる。
(ただし、自己を正当化することも、自分を守れたり生かすのは自分自身しかいないのだから必要なものでもある)


といったような人が、もしも、「言いたいから言う」という行為を、我慢というブレーキを外し、先のことなどおかまいなしにやっていったらどうなるだろう?


「言いたいことを、遠慮なく、(ずばずば)いう」
それはは、さぞかし楽だし、愉快痛快で、気持ちいいだろう。

が、そうされた相手は、状況は?
その先はどうなる?
口にしてしまったことは取り消せないんだよね?


もしもみんなが、言いたいことを言ってもいいんだ!ってやりはじめたら、どこもかしこもわがままで自己中心的なやり取りになり、もめ事やトラブルが絶えないだろう。
例えば、モラスハラスメントによる言葉の暴力は、その最たるものだと思う。
だからそれをすればするほど、みんなバラバラになってしまう。 それぞれが孤立し、孤独になる。

今の現代社会はそうなりかけてないかしら?
だから、孤独で寂しかったり、コミュニケーションが難しくなって、生きづらくなってるのでは?

だいたい、我慢や忍耐の要らない、「しちゃいけない」、学びやトレーニング(修行)など、あるんだろうか?


******


私自身は、そもそも我慢をしなくてすむような、我慢を我慢と感じないような、自分育てをしようと心がけてる。

あれが嫌、これが嫌い、したくない。
そういう「決めつけ」「物事の受け止め方」が不満や我慢、イライラを作り出してる。

なので、

 あれでいい、OKだ、有りだ、十分だ、しかたない。
 好きにはなれないけれど、嫌いにもならない(嫌いでもない)。

なんて風に人や物事が見れたら、我慢やストレスなどなくなると思う。
それに、そういう境地に至ることも、生まれ変わりの修行の目的の一つだから。


なので、不満やストレスがある時は、当事者である相手に自分が言いたいことを勢いで口にすることで解決(というより対決になる)しようとするのではなく、相手にわかったり知ってほしいこと=言うべきこと を伝えようとする、といった考え方ややり方のほうが断然良い!と私は思ってる。

違いは、自分の気分や感情にもとづいているのか、それとも知性や愛情に基づいているか? だ。


特に、ぱっと反応する場合(とっさに口や顔、態度に出してしまう)、その裏にはだいたい、怒りや不満という強い感情が隠れてたりする。
で、簡単に頭に血が上って、理性も思いやり/優しさ(善)も吹き飛ばしながら唾もとばしながら(笑)、破壊的なことをしてしまう。


こういう時って、相手を完全に悪者に仕立ててやっつけようとしている。
実際の状況や、自分の落ち度や非は無視して。

こっちのほうが、自分のほうが、よほど理不尽なことをしている、ということになる。


******


とにかく、屁理屈はさておき、人とのやり取り(会話)は穏やかにできたほうがいい。

相手がケンカを売ってきても、そう。
なぜなら、どっちが正しいとか間違えているとかに関係なく、誰かと争った後に落ち込んだりモヤモヤしたり、嫌~な気分になるのは間違いないからだ。

どうしてか?
それは、自分の中にある良心とか善という名の「愛」が、どうしてあんなことをしちゃったの?、自分にだってよくないところはあったでしょう?、あんな言い方をしなくても自分の気持ちや考えを伝えることはできたでしょう?とかって、とても悲しげに心の中で呟くせい。
それで、自己嫌悪感や罪悪感から、嫌ーな気分(後悔)になってしまうのだ。

自分の非を認めている認めていないに関係なく、自分のしたことについては恥じて後悔していることには間違いない。


******


「こういうことがありました」と、嫌な出来事を報告してるケースをSNSでよく見かける。
その場合、結果的には相手より有利な結果を導き出した(乗り越えた、解決した、勝った)のなら、もっと喜べばいいのにと思う。
でも実際はそうじゃないし、そんなことはできない。
なぜか?
自分の魂が、自分のしたことを良かったとは認めていないからだ。
(素直で謙虚に自分の落ち度を認めて反省すればすっきりするし、気持ちよく終わらせられて、頭も切り替えられるのに。 なにかというと勝ち負けや優劣にこだわる競争意識の強い人は大変だー)


だから、喜べなくて、モヤモヤしてて、ネット上に吐きだしたくなるんだと思う。
”勝っても” 気分が悪いから、だからSNSに書いて、みんなの反応、つまり「あっちがおかしいよ、あなたは間違ったことはしていない」と肯定してもらうことで、自分の中のモヤモヤを消し去りたい(圧し潰したい)んだろうなと思う。
そういう内容や投稿って、だいたい、ブログ主に同情して味方してくれる。
それを見越して。

けれど私はこう思う。
そういうやり方はフェア(公正)じゃない、長い目で見ればその人の為にならないって。

というのも、読者は実際のこと(真実)は知らない。
また、SNSという世間に向けて発信する場で、自分のことを悪く書く(自分の立場を不利にする)人はいない。

アタマのいい人はこのこともわかってる。
でも書きたいし、書く。
なぜなら、(あんなことをした自分への)はずかしさとか後悔をいだいていること自体がつらくて苦しく、何とかして逃れたいからだ。
プライドが許さない。
だから相手のことも認めたくないし、譲歩もしたくない。
自分を正当化したい。肯定したい。

そこで、他の人たちからの力(肯定や賛同、励まし)が必要になる。
そうして力づくで、自分の心の声、魂の声(正義)を、ねじ伏せようとする。

これを繰り返すから、心の中にゴミやドロがたまって、息苦しくなって、なので生きづらくなってしまうんだよね。


******


人とのもめ事は、本当に、個人個人でケースバイケースなので、具体的にこうした方が良いと、万人向けの対処法として語ることは私にはできない。
そういうアドバイスはムリ、不可能、と思ってる。

けれど、自信をもって言えることは、相手がどれほど感情的になってきても、それに負けたりつられない(売られたケンカを買わない)ことだ、と思う。
こちらが温かく穏やかな態度で接していれば、そのうち相手も、自分から振りあげてしまったこぶしを引っ込められないバツの悪さが消えていくから、我を取り戻すことができる。
すると、その人の中の、理性/分別、思いやりが動きやすくなる。
なので「何をどうすればいいのか?」と、お互いにとって円満な判断や対応ができるようになる。
そうなると、「言うべきこと」、つまり、お互いが本当は何を欲し何を求めているのか、共感的理解も含め情報交換をするための発言や主張 になるし、そうなれば、後後まで引きずるような嫌な経験や記憶にもならないと思う。

お互いに納得、手打ち、WinWin、の結末にすることができる。

で、こういう風になるためには、勝ち負けにこだわるとか、人と比べる(ということは相手と優劣を競ってるのと同じ)という価値観や発想を無くす(もしくは制御する)必要があると思う。
それができるようになると、簡単には、かーっとなりにくい。
だいたい、私たちは、野生動物や、野蛮な原始人じゃないわけで。


感情的に反応しなくてすむための、もう一つの方法は、「この人も、過去から今にかけて、泣いたり笑ったり、苦労してきているはずだ。この人なりに頑張って生きてきたんだ」ということを頭に起きながら、話を聞くことだと思う(水島広子先生のコミュニケーション法に関する一般向けの著書の中で、わかりやすく説明されているのでお勧め)

「この人も、この人なりに懸命に生きてきたんだ」という考え方(人を見る目)は、決して、思い込みとか言い訳をするための作り話でもない。
だから、良い、正しい。
ブレーキとして使える。
もし作り話やウソだったら、ブレーキにはならないので(魂は誠実で正直で、事実や真実を見逃さない)。

実際、この世に生きる誰もが一度は、孤独や悲しみの涙を流したことがあるはずで、異論を唱える人はいないでしょう。
もしも「生きるのって、こんなに楽ちんじゃない?」なんていう人がいたら私は、「それは偽りだ。 そういえるのは今だけでしょ? この先何か辛いことが起きたらそんな風に断定的には言わないでしょう? 真理というのはいつどんな場合でも絶対で普遍的に変わらない知恵。そうじゃないならそれは真理じゃないから、信じるに値しない。安易に頼ったり信じてはいけないもの」という風に反論する。


とにかく、理不尽なことをしているその人にもそういうことをしたくなるような、いろんな事情や過去が積み重なっていて。
なので誰かに甘えるようにして、わがままを言ったりしたくなってるんだってことを、相手と戦おうとか反発したくなる前に、さっっと察してあげられるようになれれば、怒りや不満の情動は収まっていくと思う。

そして、その日を、その出会いや経験を、「不快な」日・出来事にしなくて済むと思う。


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年老いていけばいくほど、あまり怒ったりイライラしないで、寛容でいられるようになるのは、世の中のこうした実情が嫌というほどわかったから(悟れたから)だと思う。
なので、経験が少ない若いうちは、不満や怒りに負けてもいたしかたない。
経験と想像(予想、知識)とでは、想像のほうが、実体験のインパクトには絶対にかなわないので。


そして、お互いに嫌な経験をしないよう、できれば気持ちよく過ごせるよう。
自分の言動に気を配ったり、感情的にならないように "我慢する" ことって、私はそれも、立派な他者愛 だと思ってる。
相手を想う気持ちがそこにあるからね。
少なくとも、私の場合はそう。


想像してみて。

もしもそうやって穏やかに話ができて解決できたら、それってすごく気持ちよくない?
自分、よくやった!大人じゃん!って、思えない?

どんな言葉や手段を使ってでも、相手を言い負かして勝てたら、それでも心から喜べる? 気持ちいい?


******


くりかえしになるけれど。

 言いたいことを言う。
 伝えるべきことを言う。

(伝えるべきことととは、自分の考えや意見、事情、説明といったことです。相手の気持ちや理由・事情がわからないから相手が誤解したりやみくもに抵抗している、というすれ違いが原因になっていることがほとんどだから。
相手がどんなに強くて怖そうな人でも、ひるまずに、自分の意見や考えは伝えようとした方がいい。 けれどそれには強い気持ちがいる。 そんな自分の背中を押すため、「べき」という言い方をしています。 こういう "義務" はありと思います)


言いたいことを言わないから、それを我慢しているだけで病気になるとか不幸になるという結論は、あまりにも飛躍しすぎと思う。
またもしも、「伝えるべきことを言う」のつもりで言いたいことはいいましょう、したいことはしましょうと呼びかけているおつもりでしたら、誤った解釈をしないよう・誤解を生まないよう、もっと適切な、「正しい」日本語を使ってほしいです。
みんなもそう言ってるから通じているだろう、じゃなくて。


それと、「言いたいことは言う」というこのアイディアは、しくじる可能性が高いです。
なぜなら、エゴの押し付け合い、ぶつかり合いになりやすいから、です。
アミじゃないけど、宇宙の法、つまり真理は愛。
だから、相手を困らせる・ぶつかるとわかってても自分の立場や思いを優先させるとか、嫌ったり、無視したり見捨てる、交わさせるよりも引き離させるという考え方・やり方は、愛(の法)にはもとづいてないので、私は良い方法とは思えないし、肯定したくないです。

人を成長させるやり方だとは思えません。
平和だって遠のいちゃいます。


最後に。
上のように努力しても厳しくて難しい相手や状況なら、自分ひとりでなんとかしようとせずに、距離を離れた(さりげなく引きさがる)ほうがいいですよ。
で、そのままにしておけない間柄や状況であれば、誰かに助言やヘルプをお願いしましょう。
その際、難しさのレベルが高い場合ほど、プロを頼ったほうがいいと思います。




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