読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

カバラ数秘術のBlog

静岡在住カウンセラーが、カバラ数秘術と心のケアについて、気ままに書いています。 ちなみにライフパスは33です。

● 当ブログコンテンツの(出典先を明記しないままの)無断転用・引用は固くお断りいたします ●


『怒らないこと』から

  ■ こんな本読みました



今日はこの本をご紹介したいと思います。

怒らないこと― アルボムッレ・スマナサーラ

ところで、この本には第2巻もあるのですが、そちらの方が普段できる実践的なことがより多く書かれています。
なので、できれば両方読んでみられることをお勧めします♪

****************

(ここから転載させていただいてます)

このように感情というものは、外部から大きな影響を受けますが、それもこれもひっくるめて、やはり根本においては個人次第です。

「怒るのも、愛情をつくるのも、その個人の勝手である」 ということを、まず理解してください。

怒るのは誰のせいでもありません。
「怒るのは私のせい」 なのです。

逆にいえば、我々にはわずかな見込みというか、光があるのです。
それは、「自分を正せば、怒りの感情を完璧に追い払え、愛の感情、あるいは幸福の感情だけで生きていられる可能性が十分にある」 ということです。

怒らないほうが良いとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう?

いつでも、我々には 「こういうことで怒ったのです」 という理由があります。
その理由ひとつひとつを分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている (※ 思い込みや勝手な推測を膨らませては怒っている ― 管理人)」 という仕組みがあります。

人間というのは、いつでも 「私は正しい。相手は間違っている」 と思っています。
それで怒るのです

「相手が正しい」 と思ったら、怒ることはありません。
それを覚えておいてください。

「私は完全に正しい。 完全だ。 完璧だ。 相手の方が悪いんだ」 と思うから、怒るのです。

他人に怒る場合は 「私が正しくて相手が間違っている」 という立場で怒りますが、自分に怒る場合はどうでしょうか?
その時も同じです。
何か仕事をしようとするのだがうまくいかないという場合、すごく自分に怒ってしまうのです。

たとえば、「がんになった」 と聞いたら、自分に対して 「なぜ私ががんになるのか?」 とずいぶん怒るのです。

「なぜこの仕事はうまくいかないのか」 「どうして今日の料理を失敗したのか」とか、そういう風に自分を責めて、自分に怒る場合があります。

「私は完璧なのに、なぜしくじったのか。 あぁ嫌だ」 「私は完璧に仕事ができるはずなのに、どうして今回はうまくいかないんだ!」 と怒ります。

この 「私は完璧だ、正しいのだ」 という考え方は、道理にかなったものなのでしょうか?


もし私がどなたかに 「本当にあなたは完璧な人なのですか? 自分が全く正しいと思っていますか?」 と聞いたら、「いえ、とんでもない。私は全然そう思っていませんよ」 というのです。

ところが私が 「あぁそう。 じゃあ、あなたはただの愚か者なのですね?」 と言ったら、すぐに怒りだすのです。
ですから、そこに矛盾があるのです。


人前では建前として 「私はダメだ、ダメな人間だ」 と一応謙虚さを見せながら、心の中では 「絶対そうじゃない。 私こそ唯一正しい人間だ。 他の連中がいい加減で、間違っているんだ」 というように考えているのです。

たとえば母親が子供を怒ったり、あるいは先生が生徒を怒ったり、あるいは上司が部下を怒ったりします。
子供や生徒、部下は、何か間違ったことをしたかもしれません。
それで怒って叱るのですが、その時我々は 「あなたが間違ったことをしたから」 と、自分の怒りを正当化します。


相手が間違っているのなら、「それはこうこうで間違っていますよ。だから二度と間違えないようにしましょう」 とニコニコ笑顔で言えば、本当はそれで済むはずです。

それなのに、なぜ怒るのでしょうか?
その時も、 「自分は正しい。自分の言葉も正しい。自分の考え方は正しい」 という概念が頭にあるのです。

けれども、私たちの心にある 「私は正しい(自分は間違ってない)」 という思考は間違いです。

それを 「私が正しいはずはないのだ」 と訂正することです。
「私は完全だ」 「私は正しい」 という、とんでもない考えかたは、一刻も早く捨てたほうが良いのです。

ちょっと考えてみてください。
人間が完全であるはずがないでしょう?

物事を正しく判断できる知識人であるならば、 「私はけっして正しくない。 今はこういう意見を言うのだけれど、それもやっぱり隙だらけ(で欠陥だらけ)だ」 とわかっています。
言葉も完璧ではないですし、自分が使っている単語も比喩も完璧ではないし、何ひとつ完全にできないのです。

たとえ子供や部下が間違いを犯したとしても、自分のしゃべり方(伝え方)が間違っていたのかもしれません。
そうすると、どちらも間違いを犯していることになるのです。

ですから、「自分が正しいという考え方は、非合理で、でたらめで、嘘で、ありえないことなのだ。 このありえないことを頭で徹底的に信じている自分ほど、大バカ者はこの世にいないのだ」 とはっきり理解したら、もう怒れなくなってしまうのです。

「私は正しいとはいえない、私は不完全だ。 間違いだらけだ」 ということが心に入ってしまうと、もうその人は二度と怒りません。

(省略)

お釈迦さまが 「人としゃべるときに、どのように言葉を使うべきか」 ということにすごく気をつけていたことは、お経を見るとよくわかります。

いい加減な言葉を使わないで、大変真剣に、言葉を選んで話していました。
それでも言葉自体が不完全だから、誤解を招いたことがあるのです。

ある人に、「ひと言、ふた言であなたの教えを説明して下さい」と言われて、お釈迦さまは 「はい、わかりました」 と、3つか4つ位の言葉で、自分の教えを説明してしまいました。
しかしそれだけで相手がわかるわけがないでしょうね。
相手はわからなくて腹が立って、「なんでわけがわからんことを言うのだ」 と言って、帰ってしまったのです。

普通の人だったら、「短く言ってくれと頼んだのはあなたの方でしょう?」 と怒るところでしょうが、お釈迦さまは怒りませんでした。
そして比丘(出家僧)たちの前で、「こういう人が来てこういう質問をしてきたので、私はこういう風に答えた。その人はわからなくてベロを出して帰っていった」 と、なんのことなく説明したということです。

このエピソードの中に見えるのは、たとえお釈迦さまでも完璧に伝えられるわけではない、ということです。
お釈迦さまはそれを知っていて、「この人が怒ってベロを出して私をからかって帰るのは当たり前だ」 と、これ以外、別に何とも思わないのです。
「私もあなたに言われた通り、こんなにきちんと答えているのに、なんであなたは理解しないのですが?」 という風には怒りませんでした。

ですが普段、お釈迦様は、お坊さんたちが「お釈迦さまがおっしゃったことにはどういう意味があるのか、説明してください」 と頼むと、それは深い話ですからと延々と説明しているのです。

普通、母親というのは、「あなたは何度言えばわかるのですか」 と怒りますね。
何かについて 「あれをやりなさい」「これをやってはいけない」 などと繰り返して言います。
それでも子供は聞いてくれません。
何回言ってもわからないこともあるでしょうが、もしかするとそれは、自分が言っている言葉の使い方や伝え方が正しくないから、かもしれません。

実は 「言葉は正しくないかもしれません」 ではなくて、「言葉は正しくない」 のです。
言葉自体が不完全なのですから、完全に正しいということはありえません。
その言葉を、不完全な我々が精いっぱいに選んで話したところで、これまた不完全な相手にうまく伝わる保証など、どこにもないのです。

このような怒りの原因となる妄想概念をつくりだすものはなんでしょうか?
それは 「我=エゴ」 です。
エゴがなければ、怒りはそもそも成り立ちません。

エゴは 「私」 「俺」 という固定概念のことです。
人間は自分のことを「これ」と指させる確固たる存在だと思っていて、疑いません。
この我々がしがみついている固定概念が、すなわち、エゴです。

エゴから生じる 「私はこれをやるべきだ」 「私は偉いのだ」 「私を認めるべきだ、そうしなくちゃいけない」 などというくだらない思考は、幸福の大きな妨げになります。

「私は男だ」 ということを強く意識したら女性を差別し、逆だったら、男性をバカにするかもしれません。
「私はがんばって勉強して、立派な大学を出たから偉い」 と思いこんでいたら、他の人を見下したりバカにしようとします。

でも結局、バカを見るのはそう思っている本人の方です。

いくら頭が良くて能力があっても、人をバカにして、言うことを聞こうとしなければ、人間関係はうまくいかなくなります。
職場でも一人ぼっちになってしまいます。
それで心が暗くなって、能力はますます発揮できなくなってしまうという悪循環におちいって、その後もずっと不幸だらけというわけです。
「勉強がよくできて東大まで卒業したのに、それからの人生は不幸だらけ」 という人が結構いますが、それは不思議でもなんでもないのです。

「私は男だ」 「若いのだ」 「老人だ」 「課長だ」 「社長だ」 「有名人だ」 「貧乏だ」 「お金持ちだ」。
良く考えてみたら、全部、大したことではないでしょう?

社長だから、それでなんなのですか?

そもそも 「私は何々だから」 と思うところから、世の中すべての問題が生まれると言っても大げさではないのです。
それさえ捨てれば、問題はすべて解決します。
幸福になりたかったら、エゴなんてないほうが良いのです。

仏教では、正しいことを実行しているかどうかが一番大事なことであって、「部下だから」とか、「課長だから」 「社長だから」 「家の主人だから」 とかいうことは一切関係ありません。

気に留めるべきことは、 「その行動や行為が正しいか正しくないか」 という点だけなのです。

たとえ子供でも正しいことを言ったら、みんなで認めて実行するべきです。
「子供のくせに、生意気だ」 などという人がいたらその人こそ無知な間違いを恥ずかしがるべきなのです。

怒りを考える上で、エゴは一番大きな問題です。
そして、エゴというものは一度つくったら、いろいろなゴミがついてくる、やっかいなものです。
エゴから無知が生まれ、ありとあらゆる汚れがついてしまうのです。
そしてその汚れは、外からの攻撃(刺激)を受けると、怒りに変わるのです。
そしてエゴが強い人の周囲は、敵ばかりになります。

世の中や他人を敵に回す原因は、我々が自分でつくっているエゴなのです。
「ここに私がいるんだ」 「私は○○さんだ」 「私はどこどこの会社の部長だ」 「私は女性だ・男性だ」 などと、"私" に対していろんな概念を使っているから、他人と接触して、そういう概念がこわれた時に、怒りが生まれます。
そしてこの怒りがやがて、怒り癖として身についてしまうと、もうなかなか取れないのです。

女性に 「あんたは女なんだから、お茶を入れるのが当たり前だろう?」 などと平気でいうバカな男をたまに見かけます。
その上、自分が指示したとおりにやってくれないと、また怒るのです。
「上司なんだから、部下が上司のいうことを聞くのは当たり前だ」 などと言う理屈もよく耳にしますが、誰がそんなことを決めたのですか?
それもただのエゴです。

もしも上司が軽率で無能だった場合、部下がその上司の指示を素直に聞いてしまったら、みんなが、会社がひどい目にあうのですよ。
こういう人は、「女だから、部下だから、こうしなくちゃいけない」 と当然のように考えるのですが、誰がそんなことを決めたのでしょう?

それはエゴからくる無知そのものです。
頭が狂っています。
私も同じ男として、恥ずかしくなってしまいます。

~ 転載はここまで ~