読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

カバラ数秘術のBlog

静岡在住カウンセラーが、カバラ数秘術と心のケアについて、気ままに書いています。 ちなみにライフパスは33です。

● 当ブログコンテンツの(出典先を明記しないままの)無断転用・引用は固くお断りいたします ●


ひとを<嫌う>ということ by 中島義道



今、中島先生の「ひとを<嫌う>ということ」という本を読んでいます。
参考になることが多くて面白いです。
ちなみに、あの林修さんも、中島先生のファンなのだそうです。

ということで、コミュニケーションに悩んでらっしゃるかたにはお勧めの一冊です。
ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)


(上の本の中から、所々要約しつつ、お借りします)


「家族の中の期待」

これは大変わかりやすい「嫌い」の原因です。
「期待」とはいろいろの意味を含み、相手が自分の愛・友情・親切・恩・努力等々に応えてくれない。
ここでも、愛したのに愛されないという、あまりにもわかりやすいものは除きます。

(略)

(家庭の中で)子どもたちは親にかなりのことを期待している。
親も子供たちにかなりのことを期待している。
夫と妻同士もしかり。
こうしてみんな相手の役割にかなりのことを期待しているのです。

とりわけ残念なのが、家庭における(いわゆる)弱者が、(いわゆる)強者に対して抱く、はなはだ大きな「期待」です。

子供は(普通)自分を捨てた親・可愛がってくれなかった親・ないがしろにした親をけっして許しません。
また妻は(普通)、仕事でウダツのあがらない亭主、妻や子供を守ってくれない亭主をけっして許さない。
なぜなら、妻の脳には「夫(父)とは仕事をし、家庭を守り、妻子に愛を注ぎ、いざというときには自分を犠牲にしても妻子を救う」ことが当然であるという観念がインプットされているからです。
これは大層高度の期待ですから、現実の家庭生活においてたえまなく崩れる仕組みになっている。

しかも、夫(父)はこれら"すべて"を満たさなければ落第なのですから、例え仕事で成功し豊かな生活を享受し、浮気の一つもしなくとも、強盗が入った時にひとり逃げ出したらもう終わり。
"まったく"得点はゼロに下がる。

あるいは身を挺して妻子を守り、疲れて帰ってきても嫌な顔一つせずに妻の苦労話を聞いてやり、子どもの相談相手になってやっても、職を失って放り出されたらもう終わり。
「明日からどう生活するの! いったい、どうしてくれるの!」と追及されるのです。
妻はたえまなく「家族っていったい何?」「夫婦っていったい何?」とか、「これが家族なの?」「これが夫婦なの?」という "根源的質問" を繰り返す。
あるべき家族、あるべき夫婦を確認しつづけ、それからの逸脱を確認し続け、夫を責め続けるのです。

こうして夫(父)はいつも、妻や子から嫌われる崖っぷちに立たされている。
こうした(いわゆる)弱者が、(いわゆる)強者を期待しまくり、期待に添わない時はたえず責めたてるという構図は、家族以外にも、いたるところに見られる。

強者は、強者としての自尊心がくすぐられることもあって、ツイその期待に応えようとしてしまいますので、それがウマク機能しなくなった時は無残です。
期待するほうはただ「あぁ、期待して損した」といって相手を切り捨てればいいのですが、期待されているほうはそうはいかない。
期待する者以上に自分自身に刃を向けて、自滅(自殺)してしまうこともあるのです。


ですから私は「他人に夢をかける人」に、非常な警戒心の念を抱いている。
基本的に誤った態度だと思います。
親が自分の果たせなかった夢を子にかけるのも、大層な暴力で、期待された子こそいい迷惑です。
こうした不自然にがんじがらめの構造を「愛」と勘違いしている人がおおいのも困りものです。

期待には、影のように、憎しみがつきまとう。
期待する者は期待に応えられなかった相手を憎み、期待された者も期待に応じられなかった場合、期待する相手を憎むという、憎しみの網目がはじめから潜在的に張られているのですから。(中にはほっておいてもらいたい、あれこれ言わないでもらいたい、自分に期待しないで欲しいという期待もある。中島先生自身はこのタイプ。がその期待はこの国ではまずかなえられない、と言います)

人類は、相手に期待し自分も期待されたい人種と、相手に期待せず自分も期待されたくない人種に二分される。
前者は「善人」であって、圧倒的多数派です。
こういう人は「あれもしてあげたい、これもしてあげたい」と迫り、その代わり「あれもしてほしい、これもしてほしい」と要求します。
このすべてが煩わしい。
ですから、必然的に衝突してしまって、相手は私が「わがまま」だと嫌いますし、私にも相手が猛烈に「わがまま」に見える。
お互いに「相手が自分の期待に応えてくれない」ことを痛感するのです。

善人とは、「他人と感情を共有したい人」のことです。
他人が喜ぶときには共に喜び、悲しむ時には共に悲しむ。
自分が喜ぶときにも、他人も同じように喜んでもらいたい。
自分が悲しいとき、他人にも同じように悲しんでもらいたい。

こうして、たえずとりわけ近い他人のことを心配し、気に掛け、成長を楽しみにし、失敗しないかとハラハラし。。。
そして成功すると「わがこと」のように喜ぶ。
失敗してもいい。
無念の涙を流してくれれば。

しかし失敗して平然としていてはならない。
成功して傲慢になってもいけない。
小成に安じてもいけない。
ああしてもいけないこうしてもダメだ、と全身目にして「期待」を寄せる。
しかしここに留まりません、

彼ら(近い他人)も同じように自分を気にかけてもらいたい。
期待してもらいたい、わがことのように一喜一憂してもらいたい。
こうして絶えず他人と「同じ感情」を共有することに、絶大な喜びを覚える。
でないと、たちまち不安を覚えるのです。

ですから、善人とは「嫌い」に向き合わない人と言えます。
この人種には、大きく分けて2つある。
一つ目は、自分はいつも善意の被害者であり、相手はいつも加害者である、という人。
自分の加害性にはまったく盲目なのです。
こういう善人は常に愚痴ばかりこぼしてる。
自分の善意がいかにむごたらしく裏切られたか、その苦難の体験を次々に腹に詰め込む。
しかも彼らはけっして当人に仕返しをしないのはもちろん、裏切られたということさえほのめかしませんから、相手はまったく気づかない。
気づかないでニコニコしているうちに、実は深いところで恨みを募らせ、切り捨てているのです。

もう一つのタイプは、すべて他人は善人だとみなす人。
相手の悪意も善意に切り替えて解釈しようとし、すべての人を好きになるべきだと考えている人。
こういう人も、これは意志というより体感的なものですから、こう考えないと落ち着かないのです。
私はそういう人に直感的に苛立ちを覚えるのだが、それは、「嫌い」という自然な感情を根本から枯らす欺瞞を感じてしまうからです。

結局両者は同じ穴のムジナ。
なぜなら、自分と相手との対立を正確に測定しないからです。
前者は自己批判能力が絶望的に欠けている。
後者はさらにそれに輪をかけて、他人批判能力までも欠如しているのです。

いつも個人の信念を確認する事より、それを滑らかに平均化して、毒を抜くことばかりにいそしんでいる。
気がついてみると、いつも穏やかな宥和状態が実現されている。
それはそれで価値あることですが、真に対立を直視した後の宥和ではありませんから、そこにはウソがある。無理がある。思い込みがある。幻想がある。

(この国に多く見られるこうした幻想による被害者の悲惨さを見ていられず)、私はあえて「嫌い」を自然に肯定する生き方、さまざまな人を嫌いさまざまな人から嫌われる生き方、それはそれでたいへん豊かな人生だと言いたいのです。


人間は、放っておいても、誰かを好きになるもの。
しかし、「好きになること」をあまりにも過大評価しますと、その傾向が少ない人、好きな人は少なからずいるが嫌いな人も山のようにいる、(わたしのような)人は異常視されてしまう。
自分はおかしいのではないかと思い込んでしまう。

好きな人と嫌いな人がさまざまな色合いで彩る人生の方が豊かではないでしょうか。
ひとを嫌うこと、ひとから嫌われることを人間失格のように恐れなくてもいいのではないか。

「好き」が発散する芳香に酔ってばかりではなく、「嫌い」が放出する猛烈な悪臭も十分に味わうことができる人生って、素晴らしいのではないか。そう思います。