読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

カバラ数秘術のBlog

静岡在住カウンセラーが、カバラ数秘術と心のケアについて、気ままに書いています。 ちなみにライフパスは33です。

● 当ブログコンテンツの(出典先を明記しないままの)無断転用・引用は固くお断りいたします ●


これは安岡正篤先生による予言?警告?

かつては歴代総理の相談役を務められ、天皇陛下の玉音放送の草稿を手掛けたことでも知られる、陽明学者の安岡正篤(まさひろ)先生。

もしも「尊敬する人は?」と聞かれたら、シルバーバーチとスウェーデンボルグ、そして安岡先生のお名前を私は迷わず挙げてます。

安岡先生のご本は10冊以上拝読していますが、今日ご紹介する本は、今からちょうど55年前に開かれたある研修会で語られたものをまとめたものだそうです。
本を読みなれたかたなら、1時間もあれば一通り目を通せるほどの量ですが、その分、どなたにもよみやすいように配慮されているように感じました。

とはいえ、素晴らしい知識や言葉が凝縮されています。
機会がおありでしたら、ぜひおすすめの本です!

さて、今日はそこから一部を記録がてら、転載させていただきたいと思います。
まるで今の日本をすでにご存じだったかのような内容で、その鋭い先見性や洞察力には、いつもながらただただ敬服するばかりです。

=====================

P23

アメリカで生物学の名高いリヒターという教授、そのアシスタントの一群がアメリカの科学協会で、「鼠、人間及び福祉国家」という非常に面白い研究を発表したことがある。

これは学者たちが実験室で使う小動物、鼠を飼育すると、非常に鼠が弱い、じきに死ぬ。
始末に困っておるのは世界共通の研究家の悩みである。
それから気が付いてこのリヒター教授たちが研究をしてみた。
これはその親である鼠、つまり野生の鼠と、実験室に飼育された鼠と比較研究してみたわけです。
そうすると、実験室で飼育された鼠はこういうことが容易に進行することがわかった。

それは要するに甘やかされて、自然の悪天候と闘う、自然の破壊的勢力と闘う必要がない。
それから飼育されておるんだから、苦労して食物をあさる努力が要らない。
外敵から攻撃を受けることがない。
そういう、いわば福祉社会に住んでおることになる。
殺されることと解剖されることを除けば、まことに完全なる福祉国家、ウエルフェアーステイツに暮らしておるんだ。

ところが、完備された施設の中に飼育された鼠の群は、みるみる甲状腺や副腎が萎縮する。
この甲状腺とか副腎というものは、外界のいろいろな刺激・ストレス、そういったようなものと闘うのに最も必要なものだ。
甲状腺からはサイロキシンというホルモンが出る。
そういうものがなくなると、まるで生物はダメになる。

次に脳の目方が軽くなる。
脳の目方が軽くなるということは、脳がやせること。
これは高等動物では大変な問題だ。
それから従って、外界のちょっとした刺激・徽菌・毒物なんていうものに対する抵抗力が弱くなる。
野生の鼠ならば何でもないような毒性や徽菌にすぐやられる。
さらに闘う力がなくなる。
外敵の攻撃に対応する力がなくなる。
その実験室に飼育された鼠の多くの中に2、3匹の野生のやつを入れると、たちまちに追いまくられる。
すぐにあっちの隅やこっちの隅で目をキョロキョロさせて、ヒイヒイ悲鳴をあげる。
まことにだらしがない。
相手の脅かしにすぐふるえ上がるような鼠ばかりになる。

発育するのは生殖腺だけだという。
これは面白い。
金持ちのドラ息子だとかドラ娘なんていうのがその通りだ。
甲状腺や副腎が萎縮し、発育するのは色気だけだというのと同じようなことだ。

福祉国家がその通り、今日世界のあらゆる進歩した都市国家はみんなそれで悩んでおる。
国民が肉体的・精神的に弱くなって、特に神経衰弱・精神病者が多くなって、自殺者の数が激増、そして男女間の風紀は乱れる。
まことにだらしない社会になり、これをどう救うかということについてみな神経を悩ましておる。

そういうふうになる。
つまり文明社会・文化社会ほど、人間がそういうふうになる。
それは近代、特に著しくなってきた。
人間の科学技術と、それによるいろいろな福祉施設のために、ますます著しくなってきた。

第一、非常にスピードアップされて距離というものがほとんど問題にならなくなってきた。
いわゆる距離をなくしたといわれるゆえんである。
と同時に、時間というものもなくなってきた。
それでインスタント時代というものになる。
レジャーブーム、レジャー時代というものになってきた。
何でもインスタントになる。
だから時間が余る。

そのインスタントやレジャー、つまり時間が要らない、即刻間に合う、即時主義、それから有閑というもの、暇があるとそれでは社会大衆・文化人種はいいほうに使うか、進歩向上させるために使うかというと、そうではない。
だんだん、それは人間を肉体的にも精神的にも弱体化させるというほうにばかりいってしまう。

そしてもう今日は目に見えて、肉体的にも性格的・心理的・精神的にもこのパブリック・エクセレンスを誇る近代文明社会というものは、エクセレンスどころではない。
すでに病的に、あるいは狂的、気違いじみてきておる。
事実、神経衰弱者・精神異常者・精神病者・性格破綻者・発狂者が激増してきておる。

(※ この発言は1961年7月当時のものです)

それでなくても、人々は何ということなく取りとめもない仕事やら娯楽やらに追われ追われて、ほとんど余裕というもの、落ち着きというもの、深みというようなものをなくしてきておる。

学校へ行っても経験することだが、八時から九時まで、九時から十時まで、十時から十ー時まで、十一時から十二時までというふうに、次から次へと学課目が羅列してあるね。
上へゆくほど学課目の羅列だ。
それを何の統一も脈絡もなく、各主任教師が次々と現れて、雑駁(ざっぱく)な要するに知識を注入するだけだ。
学生は物をしみじみ考えるなんて余裕はない。
ただそれを耳から聞いて、あるいは書物を見て、いわゆる視聴覚、視覚と聴覚、目と耳だけを働かせて、ずんずん進んでゆく。

アメリカからの皮肉な例なんかに、この頃、大学生の頭は吸い取り紙のようなものだ。
いろいろなインクのしみで汚れっ放しになっておると、そういう頭になってしまっておる。
自主的に物を考える、味わうというような、判断をする、追究をするというような、念を入れて、年季を入れて習熟するというようなことは、ほとんどなくなってしまった。

知識・技術までインスタントになってしまった。
インスタントコーヒー・インスタントラーメンばかりでない。
インスタント頭脳・インスタント教員・インスタント技術者、もうすべてインスタントである。

つまり多忙・雑駁・疲労・無内容、つまり文明社会は大衆を白痴化する。
その方向に恐ろしい勢いで向かっている。

それに乗じて、いろいろなことが起こってきた。

第一は大衆社会というもの。
人間がもう個人ではなくなって、生活単位が大衆になってきた。
つまり個人の世の中ではなくて大衆社会、マス・ソサエテイというようになってきた。
何事も大衆である。

経済でも政治でも文化でも何でも大衆が対象になって、そこでどういうことが起こってきたかというと、人間というものの事実の価値というものは、これ
はすべて個人の深遠な内面生活から発してくる。

決して雑然たる大衆の中から何物も生まれるものではない。
真の文化というものの基は、個人の内容生活・内的精神である。

ところが大衆化するに従って、そういう個性的なものはみんな消滅する。


群集心理というものは大衆化するほど、その大衆はみるみる動物的還元をし、低級になる、狂暴になる。
そして少数の指導者・煽動者・支配者というような者に指揮操縦、煽られるようになる。

(かつてヒトラーもまったく同じことを言っていたと、本で読んだことがあります)


大衆化することによって人間の個性・主体性・自主性というようなものはなくされて、だんだん人間が低下して、無内容になって、逆に少数の人間の専制、あるいは独裁者の出現というようになってくる。


それに加うるに組織化という問題がある。

近代社会は非常な勢いで組織化されてきた。
この面からまた個人というものは無になってくるようになってきた。
いわゆる人間は個人ではなくて組職人になってきた。
この面からも人間はだんだん無内容になる。

その次にまた、恐るべき分業的専門化というものが発達した。
専門化するということは結構なことであるが、そのことは事実においては、結果においては非常なセクション争いになることだ。
過去の連絡・統一を失うことである。

そこで専門化が発達するほど、専門的には非常に優れたようで、実は創造性とか統一性とかいうものがなくなってきた。
過去の近代文明というものは、いわゆる時をなくし、距離をなくし、いろいろな意味で世界を非常に統一化、総合的にしてきた。
この世界文化の最も新しい傾向に対して、現実の人間は全くこれに矛盾する。
そこでいろいろな専門家がたくさんできて、その専門家だけではちりぢりばらばらでどうにもならない。
そういう専門家を総合・統一して、これを人間社会に役立たせるためにも、少数の優れた指導者・エリートがあらゆる意味から要求されるようになってきた。


あらゆる意味において少し深く考え、真剣に研究すると、今日のこの文明・文化・社会というものは、次第次第に危険で病的な状態、自壊現象というものが深刻になってきた。

これをどうして救うか、この危険な傾向をどうして救って、何によってその危険の中にあるところの自分というものの精神や生活をいかに救って、そうして難局に生き生きと善処してゆくか。

それが、今日の心ある人間、特に次の時代を担うべき青年たちに、最も深刻な課題になってきている。