カバラ数秘術のBlog

静岡在住の数秘術カウンセラーによる、数秘術やスピリチュアリズム、メンタルケアのいろいろ

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心の苦しみをなくす考え方と方法

こんにちは。
今日の記事は数か月前に公開してたはずが、いつのまにか下書き保存の状態になっていたものを再投稿しています。
なぜだろう。不思議???


*****


こちらの本を読みました。
哲学の基礎をわかりやすく説明してくださってて、哲学のことは何も知らない私にも大変読みやすかったです。


考える力が身につく哲学入門




さてそこで、その中から気になったところをPickupして、ここにメモしておきたいと思います。

●哲学とは本を読むことでも、書き写すことでもありません
考えて、実際に使ってみるものであり、悩みや問題を解決するものです


●哲学は学問ではなく行為である

●哲学を学ぶことと、通常の学問とは違う点

ふつうの学び・・・知識・情報を自分の中に取り込む
哲学の学び・・・・取り込んだ知識・情報を処理する枠組み・方法 を構築する

※算数の勉強に当てはめると、「答えそのものを覚えて記憶する」のと、「答えではなくて、その答えを出すための手段や方法を覚え、しかも応用できるようにする」ということなのかな?なんて思いました

●科学は「事実」を語る。
AはBであるという、"あるがまま" の事実で判断をする
そして哲学は「価値」を語る。
AはBであるべき、AはCでなければいけない という"あるべき姿" の価値で判断をする


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***


余談ですが。
この図で説明されている科学的な判断の文言と申しますか、言い方が、『客観的』で、哲学的な判断の場合が、『主観的』 という風にも置き換えられると思うんですね。

そこで、思い出すのが、原始仏教(テーラワーダ)のスマナサーラさんの本で見かけたお話です。


仏教は科学であるとスマナサーラさんはおっしゃっていますが、それは『真理というのは普遍的(決して変わらない)客観的な事実』 だから。
いつどこでだれが経験しようと、揺るがない答え。
例えば地球は東から上って西に沈むといわれて、「いや、南から上って北に沈むんだよ」なんて反論する人はいません。
つまり、まぎれもない客観的(科学的)な事実や真実 なんですね。


そして釈迦は、あらゆる類の人の苦しみは、そもそも自分主体で物事を解釈する(主観的。自分の眼鏡でモノを見聞きする。自意識?)からだ、ということに気づき(悟り)ました。

そしてその癖を取り除く方法の一つが、ヴィパッサナー瞑想法。
今話題の、マインドフルネス瞑想法の元になった、瞑想法です。

この瞑想法を練習していくと、客観的なものの見方、つまり「ありのまま=事実/真理」で、物事を受け止めたり表現してゆくようになるので、その結果、生きる上でのストレスや悩みが減る/なくなるんですね。

で、適応障害を患っていた時、あるテレビ番組でこの瞑想法のことを知り、スマナサーラさんの本を読んだら、「うつが治る」と書かれているのを見つけました(うつにもうつ病とうつ状態、がありますから)。
そこで試してみたところ急激に回復して楽になれたのと(いわば、認知行動療法の体感版 みたいなもの といえると思います)、カウンセリングをする際、今でも大変役に立っています。

なぜなら、ヴィパッサナー瞑想法では、自分の意見や考え、感覚の様子を一切挟まずに、ありのまま実況中継する瞑想法だから、なんですね。
(痛いとか気持ちいい、という感覚も無視します。 とにかく動きや動作、色、形だけに集中して観察し続けます。 予想や推測、想像で伝えることもしないようにします)

例えば、右手を上げる動作をします。
その時、右手に何が起きているのか、その変化や動きだけに集中や観察をして、淡々と、心の中で実況中継をしてゆきます。

この方法に慣れるとですね、物事を見聞きするとき、自分を切り離す(特に自分らしい価値観や好み、感覚などをはさまない)ことができるようになるんです。
自分も含めて、その現場や物事を、まるで幽体離脱して(笑)、別の個人になって、そしてそれらをふかんで見ることができるようになるんですね。

自分自身は正面からちゃんと 「体験している/現実と向き合っている」 のに、個人的な感情や気分に振り回されなくなるんです。
好きでもないし嫌いでもない、悲しくもないしうれしくもない。
悪くもないし正しくもない、つらくも苦しくもない、不安も恐れもない。

「ただ、ある」という、自分独自の意識(思考や感覚)を除いた、現実や事実をそのまんま素直に認識した情報だけしか、頭に浮かばなくなります。

なので、ヴィパッサナーをしているとうつが治る、本物の仏教は科学である、仏陀は偉大な心理カウンセラーであると、スマナサーラさんがおっしゃっているのは、私は納得でした。
認知のゆがみを無くそうとしてるようなものなので。


また、スマナサーラさんいわく、個人の損得勘定とか価値観や好き嫌い(の判断、決めつけ、思い込み=執着や煩悩)が、ありのままの物事の受け止め方を、自分に都合の良いように解釈しゆがめてしまう。
だから、人との行き違いが生まれ、物事が思い通りに行かないと嘆き。。。と、人に悩みや苦しみをもたらしてしまうのだそう。

ですから、人の話や態度も含め。物事を見るときは、できるだけ「自分」を切り離すこと。
つまり客観的な物事のとらえ方ができればできるほど、生きやすくなれる、ということですね。

あ、感じなくする、無視する、なかったことにする、というのとは意味やしていることが違います。
事実や現実を正面から直視しても、平常な時と変わらない状態でいられるようになったり、そこに「こうしたい」とか「こうなってほしい」「こうかもしれない」とか、個人的な欲求や期待、憶測、意見を挟まない という状態です。


セッションでやり取りをさせていただいていますと、割合に、客観的であること主観的であること の(言葉の意味の)違いが、あいまいになってらっしゃるかたが多いので、その違いと、またコントロールできるようになる方法を、書いてみました。



***


畠山さんの本のまとめの続きです。

【嘘をつくと魂が歪む】

ソクラテスが弟子であるグラウコンと行った、「ギュゲスの指輪」との問答より。

羊飼いのギュゲスが持っている指輪は、玉受けを内側に回すと自在に自分の姿を消すことができる。
ギュゲスは王妃と共謀し、王を殺してしまう。
もちろん彼の姿は誰からも見えていない。
だから彼は決して誰からも「よくない」人開だと言われることはない。

そしてグラウコンはソクラテスに問いかけます。

  「誰にもバレないならは、ギュゲスは悪人だとは言えないのではないか?」

これについてのソクラテスの答えがこれ。

  「魂が歪む以上、それはやはり不正にほかならない」


ソクラテスは「よい」ということの根拠を、他人の判断より、「魂のよさ(アレテー・徳)」に求めていた。
私たちには「ギュゲスの指輪」のような魔法の道具はないけれど、その代わりになるものがある。

それは「嘘」である。

日常生活のさまざまな場面で私たちがつく嘘は、「自分の本当の姿を偽る」こと。
それらの嘘は、それが人にバレようとバレまいと、やはり「よい」とは言えないのである。

どんな嘘も自分自身を騙すことはできず、知らない内に自分自身の魂を傷つけることになってしまうのです


***


仏教の教えについて、説明(解釈?)がとてもわかりやすかったのでメモ。

釈迦は35歳のときに悟りを開き、その後、自分が悟ったことを道端で伝道し始めます(初転法輪)。
このときに語られた教えが、四諦(したい)で、これは、4つの真理とその実践法 です。


(1つ目の段階) 苦諦(くたい)
この世はすべて苦であると知る段階。この世に満ちている苦とその現実を認識する段階

(2つ目の段階) 集諦(じったい)
それらの苦は、物事への執着(煩悩)から生じていること、苦の原因に対して認識する段階

(3つ目の段階) 滅諦(めったい)
煩悩を絶った状態、すなわち涅槃について知る。 煩悩は絶てると認識する段階

(4つ目の段階) 道諦(どうたい)
涅槃に至るための正しい修行とその実践方法を知る。煩悩を絶つ方法の認識をする段階


ここからは原文をお借りします。


私たちは普通、自分という存在はそれ自体で独立して存在していると考えがちです。
しかし、ブッダはまずそのような「私」は存在しないのだという立場を取っています(諸法無我 しょほうむが)。

友達だったり、親だったり、先生だったり、学校だったり、会社だったり、携帯電話だったり、肉や魚だったり、色々な人・ものとの関係の中で生きています。
これらのどれ一つとして自分は無関係ではありません(縁起 えんぎ)。

ですから、これらの関係性を断ち切って生きることはできませんし、自分一人で世界が成立することもありません。
それにもかかわらず、この事実を忘れてしまって生きているのです(無明 むみょう)。

「存在しているのはこの自分だ」という無明からは、執着(しゅうじゃく 仏教用語)が生まれます。

「いい服が着たい」「いい成績がとりたい」「金持ちになりたい」「人気者になりたい」。
そういった気持ちを持つ事ができるのは、ひとえに諸法無我の事実から目をそむけているからにすぎません。

すべてのものも、すべての人も、そして自分もいつかは滅ぶ(諸行無常)のに、人間はどうしても執着から自由になれず、苫しみの輪の中を堂々巡りします(一切皆苦 いっさいかいく)。

この苦に満ちた世界の中で、人間が苦にさいなまれなくなることは不可能なのでしょうか?
ブッダは「できる」と考えます。

まず、この世界が苦しみに満ちていると知ればいい(苦諦)。
そして、苦の原因が執着や煩悩にあると知ればいい(集諦)。
さらに、その執着や煩悩を絶てば苦しみが消えると知ればいい(滅諦)。
最後に、執着や煩悩を絶つための実践をすればいい(道諦)。

そう、先ほど見た四諦の教えです。
これによって苦しみから解放された境地のことを 涅槃(ねはん) といいます。

あなたは今、何かに苦しんでいますか?
本当に好きだったあの人を想うたびにうずく心の痛みでもいい。
受験勉強に必死な毎日でもいい。
同期のライバルに営業成績を抜かされた悔しさでもいい。

でも、そうした苦しさの「原因」は何かと考えてみてください。

そこには「あの人」や「学歴」や「実績」に対する執着があるはずです。
そして、その執着の背景には、「私か存在している」という思いがあるはずです。
ブッダはそれこそが大いなる思い違いなのだと言うのです。

でも、「私」を捨てることなんて本当にできるのでしょうか?

ブッダもその難しさは十分にわかっていたはずです。
その困難を乗り越えて、あらゆる執着から解放される人が「ブッダ(悟りを開いた人)」なのです。

「私かいる」のではなく、「これがあるからあれがある」「あなたがいるから私かいる」の考え方、少しは理解できそうでしょうか?


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