カバラ数秘術カウンセラーのBlog

数秘術歴18年 数秘33のカウンセラー兼スピリチュアリストのブログです。 数秘術や宿曜、スピリチュアリズム、日々のこと。 自由気ままに書いています。

ある初秋の日の思い


ここ最近、胸を痛めていることがあります。


どうしてそんなにお互いに傷つけあったり、苦しめあうの?
もう哀しくて哀しくて。


「なんだあれは?」と、実情を何もわかっていないのに、けなしたりバカにして見下したり。
もしくはココがおかしいとか、本当はこうすべきと、ダメ出しや意見をしたり。
はたまた素直じゃなくて、ひねくれた受けとりかたをしてみたり。

(「良いか悪いか」「優れているかそうでないか」。そうして比べている時点で、差別や区別をしてるのと同じです)



まずは自分のことを理解しようとしてくれるよりも先に、いきなりそんなことをされたら。
わたしでしたら腹が立つより、切なくて、哀しくなります。
自分が生きている世界はそういうところなんだ、この世界のいったいどこに(心の)救い(慰み、愛)があるんだろう?って。


思うに、そういうことは本来、相手のこともその人が置かれた事情も、自分の目や耳で直接確かめて理解してから、初めてできることではと思うんですね。
そもそも何をどうしたくて、わざわざ不特定多数の人の目に(しかも否応なしに)つく、SNSに書き込んだりするのでしょう?
百歩譲って、相手のためということでしたら、ご本人に直接言うべき。
SNS上で見知らぬ同士であーでもないこーでもないと議論してたって、ますます不満な相手や事柄に対してイライラし腹が立ってくるわ、もっというと他人を困らせたりイジメたがるような意地の悪い人を増やす助けにしかならない気がするんです。


そもそも、こうしたことをためらいもなくできる人ほど、実は社会に馴染めず孤独だったり、体調を崩していたりと、生きづらさを抱えてそうに見えてしまうのは私の考えすぎや勘違いでしょうか。



私は昭和の人間ですので、記憶では当時は確か、「人に(上から)モノを教えたり諭せる人は、それなりの人格者であるべき」といった、暗黙の了解や常識、マナーとか礼儀があったと思います。


当時は縦社会で、他者や目上を尊重するのはごく当たり前でした。
が、その後、横社会になってゆきます。
するととたんに、縦社会はまちがいだった、ということになってしまった。
が、私は、今のこの、殺伐とした不安定な世情は、誤った「みんな横並び論」が浸透してしまったからではと思っています。


確かに中には、丁重には扱いたくないような、"ひどい(態度をとる)"人はいます。
でもだからといって、私は、目には目を、という対応では、どちらにも怒りやイライラ、不満が生まれるのは間違いないと思います。

我慢には、(相手だけでなく自分のためにも)した方が良い我慢とそうでない我慢があると思っています。 我慢しなくなったら、楽ばかりしてダメな人間になってゆくだけです。 それは単なる過保護で甘やかしです。 高級霊たちだっていまだに我慢や努力をしているのですから。しかも見ず知らずの人たちのために



また、横並びという考え方は、他人の扱いは自分と同列か、下手するとそれ以下、ということになります。
それはどういうことを意味するのでしょう。
しかも、自分や自分の人生を嫌う人ほど、他の人や物事をどうでもよくしてしまうもの。
最悪は、嫌な自分を抹消したいほど嫌ってる場合、その怒りや憎しみの目を、他人に向けます。
どうでもいい存在だから、殺したっていいでしょ?という、犯罪者の発想になっていくんですね。


「命は大切なんだよ。みんなそれぞれに価値があるんだよ。」
という時、その言葉の裏には、他に対するリスペクトがあるはずと思うんです。
大切だというのは、それに価値を見出し、敬意を持っているからこそ心に浮かんでくる思いと思うんですね。

けれど、かたやそう言いながらも別の場所や機会では、横並びの同列が倫理的にも正しいかのように言われてるという、ねじれが起きてます。


ただ、リスペクトしようとするとき、自分のことはないがしろにしてしまっている人もいます。
それは単に、その人が経験不足や理解不足のために、やりかたが間違っているだけ。
スピリチュアリズム側からすれば、他者に敬意をもつこと、尊重すること自体は真理で正しいのです。


そして、これなくして、平和や繁栄もないのですね。


*****



話が変わりますが。

夕べのニュースを見ていたら、長く収監されてたかたたちが刑期を終えて出所される前に、社会に円滑に溶け込めるよう、コミュニケーションの特別授業が行われていることを知りました。
そしてこの特集の中で、特に印象に残った場面がありました。(うろ覚えです)


講師のかた(セラピストかカウンセラーさんかと)が、出所直前の5,6人の受刑者たちの前で、こう質問されていました。

「人でごった返している駅で、後ろにベビーカーを押している女性が立っています。あなたはどう思いますか?」


すると、彼らは口々に答え始めます。

・邪魔だ
・腹が立つ
・迷惑だ
・どうしてここにいるのか?

ベビーカーを押している女性に対して不快感を示すような答えばかりでした。



次に講師の人が別の質問をします。

「その人はなぜ、その時間のその場所に、そんな風にしていたと思いますか?」


すると、答えの中身が変わってきます。
具体的な答えは思い出せませんが、どれも、「女性はしかたなくそうしたのだろう」、と女性寄りの意見に変わっていったんですね。

そうしてみんなで「理由」をじっくり考えながら意見を出しあううち、最後の方では、「手伝ってあげたい」といった意見まで出てきたんです。


本当は、ちゃんと考えさえすれば、誰でもわかることだし、できることなんですよね。
考えさせられました。

ちなみに、この刑務所の所長さんは、「犯罪者のほとんどが、もともとコミュニケーション能力が低いのです」とおっしゃっていました。


*****


寂しい、孤独だ。

私自身も含めて、そういう人は山ほどいらっしゃるかと思います。
そしてその中には、「自分から先に愛するから、人から愛される」という "教え/知恵" も知っている人たちも多いと思います。
けれど、では実際にどれほど自ら率先してやっているのでしょう。。
(「愛、愛する」というのがわかりづらければ、親切にする、優しくする、という言い方に置き換えてみたらよろしいかと思います)


私が知る限り、そうした心がけや意思をちゃんと持っている人は、人に話しかけるとき、自然と口元に微笑みが浮かんでいたり、言葉も柔らかくて丁重だったりするように思えます。

私、年をとったせいか、最近よく、自分からお礼や挨拶とか、ちょっとしたことを話しかけるんですよ(笑。
「こんにちは」「ありがとうございます」「助かります」「バス、なかなか来ませんねぇ?」「だいぶ涼しくなりましたね」「あそこにきれいな花が咲いてますね」とか。


その時、上で書いたようなことを意識してします。
すると、相手もちゃんと、普通に、言葉を返してくれるんですよ~。
すごく楽しいし、その日一日、気分よくいられたりします。

とはいえ、とんがっていた昔の私でしたら、こんなことするなんて、絶対にありえないこと!(苦笑。


けれどおかげで気づけたんです。
これも愛の行為で、しかもたったこれだけのことで、孤独や寂しさが消えてなくなると。


温かなやり取りや会話は、声をかけるほうも、かける方も、気分がいいですよ。

愛されたいなら、まず自分から、愛を体現すること、ですね。
まだまだ世間知らずで未熟な私がこんなことを語るのもなんなのですがf:id:kabbalah-suuhi358:20181122151953g:plainf:id:kabbalah-suuhi358:20181122151953g:plainf:id:kabbalah-suuhi358:20181122151953g:plain


今日も良き日でありますように。


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